研究レポート「学校教育における『応援団』をめぐる考察」

学校教育における「応援団」をめぐる考察

─本郷学園応援委員会の活動を通して─

監督 横尾朗大

 

はじめに

「フレッ フレッ 本郷!」

 体育館に大きな声がこだまする。昨年9月、本郷祭の参加団体最後のステージ。本校に足を運んで下さった大勢の来場者の前で、学ラン姿の生徒たちが声を張り上げる。

「本来、応援の精神とは利他主義が本懐であり、それはボランティア精神です。自分自身のことではなく、頑張ろうとする他者を支援すること。また、頑張る人を支援したい、と思う人々の心をリードし、一つにまとめ、大きな力へと換えて送り届けること。これが今も昔も変わらない、『応援団』の存在意義であるはずです。そのためには、頑張る対象者の気持ち、応援しようと思っている人々の気持ちを汲み取り、皆さんが望んでいることに応えられる存在でなければなりません。」

 彼らは本郷学園応援委員会。設立してわずか2年目の、本校の「応援団」である。今回で5回目を数える「本郷祭リーダー演技披露」は、同じ中高一貫の男子校である城北学園の応援同好会を招聘しょうへいし、2校による本城応援合戦を実施したのだ。

第1回 華の本城戦

 2008年公開の映画「フレフレ少女」。応援団未経験の文学少女が団長として活躍する。また、2010年に刊行された重松清の『あすなろ三三七拍子』。会社の業務命令で大学の応援団へ出向するはめになった、45歳のサラリーマンを描いた物語である。最近の応援団が題材になっている作品のいくつかを見てみると、ある共通点に気が付く。それは、どれも一様に廃部(団)寸前で描かれているということである。

 確かに今日、応援団文化は衰退の一途を辿っている。存続していても、数名で活動している例は決して珍しくない。その活動においても、体育祭限定であったり、文化祭の出し物としてのみであったりと、年間を通しての活動はしていない場合も見受けられる。

 衰退してしまった理由は何だろうか。1つ目に、時代の流れが挙げられる。昔ほど、生徒たちの愛校心や帰属意識は高くなく、男臭さも流行らない。2つ目が、応援団の評判が決して高くはなかったという点である。一昔前までは、威圧的な態度の応援団員も少なくなかったと聞く。3つ目に考えられる理由は、正しい応援理論の欠如である。指導者が絶対的に不足しているのだ。これは2つ目の理由も誘発している。そもそも、応援団を正しく指導するためのネットワークが存在しないのである。これだけ社会に認知され、学校教育の課外活動としても認められている応援団の、全国的な連盟なり協会なりが存在しないということには、疑問を抱かずにはいられない。

 かつては大学だけでなく、高校にも多数存在した応援団1。一体、この団体はそもそも何なのか。そして、現代において必要なのか。本稿では、本校での取り組みを紹介しつつ、今日の応援団の在り方について考察していきたい。

 なお、一概に応援団と言っても、応援部・応援指導部・応援団リーダー部・応援委員会など、学校によって様々な呼称がなされている。たとえば、「応援(指導)部」はあくまで部活動の一つであり、その「部」が一般生徒を指導して一つにまとめ上げた集団のことを「応援団」と呼ぶ、という解釈もある。他にも、プロ野球の私設応援団や「子育て応援団」のようなNPO法人も存在する。そのため、本稿では「生徒・学生による応援の精神を基調とした学校公認のクラブ2」のことを、一括して「応援団」と表わすこととする。3

一 応援団は必要か否か

 応援なんて、試合があって初めて成立する。選手がいなければ、応援なんてできないじゃないか。応援団なんて所詮二次的な存在であり、あってもなくても変わらない──。確かにそうかもしれない。しかしその場合、「○○高校応援団」ではなく、たとえば「○○高校○○部応援団」のような、特定の団体の専属応援団ということになってしまう。

 明治時代に「Baseballベースボール」を初めて「野球」と和訳した中馬ちゅうまんかなえは、著書『野球』のなかでこのように記している。

仕合しあい撰手せんしゅの仕合にあらずして全校の仕合なり。勝敗は撰手の勝敗にあらずして全校の勝敗なり。

 

 一般学生(生徒)は普段から選手を鼓舞し、野球の技術や采配に余計な口を挟むことなく、模範生として、試合の際のファインプレーを褒め称えたり、チャンスの時には生徒全員で校歌を斉唱したりすることが望ましい。試合は選手だけが戦っているのではなく、応援する生徒も含め、全員で戦っているのだ、という趣旨である4。元プロ野球選手の新庄剛志氏曰く、守備で捕球できるか否かを決める要素として、最後は「ファンの応援」に懸かっていると述べている。ギリギリ捕ることが難しい球でも、たくさんの声援があれば捕れることがあるのだそうだ5応援の有無が本当に試合の勝敗に影響しないのかと言えば、それは違うと断言できよう。

 また、学習院高等科で応援団長を務め、「ヒゲの殿下」で親しまれた寬仁ともひと親王殿下は次のように述べられている。

私が応援団に強く惹かれますのは、母校を大切にする組織であるという点です。6

  

 せっかく学校の名前を掲げるのであれば、学校そのものを応援する存在でありたい。母校を愛し、母校のことを熟知している。校内にゴミが落ちていれば進んで掃除を行う。校則を遵守するどころか、違反する生徒には正しく注意できる。学校の模範的存在、それが応援団の理想像である。

 模範生に求められること、それは周囲の人間をより良い方向へ引っ張っていくためのリーダーシップである。校歌の指揮を執る応援団員の姿を見たことはないだろうか。これについて、古いエピソードではあるが一つ紹介したい。

 昭和七年、早稲田大学では、創立五十周年を記念して、長さ二尺(六〇センチ)足らずの銀製の指揮棒が田中穂積ほづみ総長から応援部に贈られた。

 翌年(昭和八年)、慶應義塾応援部にも林毅陸きろく塾長から正式な創部を祝して指揮棒が授けられた。指揮棒は長さ六尺(一八〇センチ)余りの樫材の先端に岩の上で羽ばたく金色の鷲が彫刻され、岩には塾長の筆になる「自尊」の文字が彫ってあった。7

 

 ここから分かるように、早稲田と慶應義塾双方の応援団*の場合、学校当局から正式に指揮権を与えられている。与えられた以上、しっかりと役割をこなさなければならない。学校の原点である建学の精神が込められている校歌を一緒に歌うことで、生徒たちは自ずと仲間意識を共有できる8詳しくは後述するが、ここに団旗が加われば、連帯感は更に増す

 愛校心に溢れ、リーダーシップを発揮できる模範的生徒の集まり。応援団がそのような団体であれば、現代でもきっと必要とされるに違いない。

二 本校での取り組み

1 応援活動のきっかけ

 本校の応援団(応援委員会を指す。後述の体育祭応援団との混同を避けるため、以下、「本会」とする)は、平成18年の6月に端を発する。当時の生徒会長から「体育祭で応援合戦がしたい」という話を受けたことが始まりだった。もともと本校には応援団が存在していた9ようだが、紆余曲折を経て消滅してしまったと聞いている。現在、その痕跡を見出せるものは、昭和の頃に寄贈されたという和太鼓4張のみである。

 応援合戦の演技指導については、熟慮に熟慮を重ね、とても苦労した記憶がある。応援席に座っている生徒たちの興味を惹き、なおかつ昂揚感を喚起し得る演出となると、内容の充実ばかりでなく、生徒たちとのジェネレーションギャップにも配慮して指導しなければならない。応援の精神論から説明したところで、正しい応援団の概念というものは簡単に理解できるものではない。何よりも、せっかく興味を持ってくれた応援団に対して抵抗を感じてほしくなかった。結論として、まずは応援の精神を踏まえている既成の演技のいくつかを選別し、生徒たちに紹介したのである。そのなかで、彼らのイメージと合致した「国大音頭」についての説明を引用する。

(GHQは)昭和二十三年十二月十五日、神道指令を発して神社に圧迫を加えた。これは、創立以来、神社界から経営上多大の援助を受けてきた本学にとっても重大なことであった。……(中略)……こうした状況を憂えた折口おりくち信夫しのぶ教授は、「国大音頭」を作詞し、学生を元気づけようとされたのであった。……(中略)……曲は炭鉱節を流用することになったが、踊りは、花柳はなやぎ一輔氏に振付けを依頼した。10

 

 現存する「国大音頭」は、当初の日本舞踊の振り付けに加え、空手の型を取り入れた力強い演技となっている。動きの一つ一つに、母校の発展を願う祈りが込められている。そのなかで、右手を手前に引き、両手をずらして拍手をする動きがある(図1左)。実は、これは神社へ参拝する際の作法「二拝二拍手一拝」の拍手「柏手かしわで開手ひらて)」に由来する。本校が神道系の学校法人ではない以上、同じ動きをそのまま導入することは相応しくない。従って、関係諸氏の許可を得て改変を加えたものが、現在「本郷音頭」として受け継がれている。(図1右

図1(左:「国大音頭」 右:「本郷音頭」)

2 応援委員会設立の経緯

 体育祭を目的とした応援団が毎年結成されるようになって3年目のこと。これから大学入試に挑戦する高校3年生へ向けて壮行会を企画してほしい、という依頼をいただいた。この年から、3学期の始業式後に応援団経験者の有志が集い、壮行会を行うようになる。しかし担当する生徒が毎年入れ替わるため、行事の内容が充実しないという問題を抱えていた。

 続いて翌年の9月、台風の接近とインフルエンザの流行によって体育祭が中止に追い込まれた。そのため、体育祭応援団は翌週開催の本郷祭で練習の成果を披露した。これをきっかけとして、6月の体育祭だけではなく、9月の本郷祭、翌年1月の受験生壮行会と、徐々に活動の場を広げていく。

 平成23年には体育祭応援団も6年目を迎えた。学年が一回りしたことも踏まえ、運営の要領を先輩から後輩へと代々継承できる組織作りについて検討することになる。これが本会設立に至った経緯である。

3 現在の活動状況

 各クラスより選出した応援団員によって、赤組・白組・青組の3つの体育祭応援団を組織する。この運営方法を更に改良するため、平成24年の本会発足に伴い、図2に示すかたちで組織再編を行った。まず、応援団員は一般生徒をリードする立場であるということから、まとめて「リーダー部」に所属するものとした。また、大舞台で演技をするよりも事務作業の方が向いているという生徒のため、リーダー部の裏方として「総務部」を新たに設けた。そして、体育祭以降の行事である本郷祭や受験生壮行会を始め、大会応援や学校行事その他への参加を希望する生徒たちによって、リーダー部・総務部の指導的立場という意味で「指導部」を組織した。

 指導部ができたことにより、様々な活動を展開できるようになったことはもちろん、中学生・高校生が年間を通じて活動できるようになった。学年を超えた縦の繋がりも強固なものとなり、その年その年に取り組んできた内容が、次の世代にきちんと引き継がれるようになったのだ。これは、とても大きな進展であったと実感している。また、正しい応援精神を学ぶ機会も多くなり、その結果、外見だけではない、心のこもった力強い演技を披露することが可能となった。

図2

三 応援団の謎

 応援団という名称を知っていても、その実態を把握している人は少ない。ここからは、本会でも踏襲している応援団特有の文化について、そのルーツや意義を紹介・解説していきたい。皆様の理解が深まることで、少しでも応援団そのものの魅力を感じ取っていただければ幸いである。

1 応援団の起源について

 明治時代の旧制一高と三高の野球の定期戦11を応援団*の出自とする説や、一説によれば明治36年、旧第一高等学校が横浜の外人クラブと横浜公園で行った野球試合に、当時の一高生が開通間もない東海道線の汽車で乗り込んで、応援を行ったのがそのはじまりであると言われている12など、応援団の起源には諸説ある。ただし、すでに1890年代後半には、「聲援隊せいえんたい」、「應援隊」の呼称で応援組織が登場して13いた、との記述もあり、いずれにしても明治時代の学生たちの気風によって醸成されたものであることは間違いない。

 明治22年(1889年)9月に一高の野球場が完成し、その翌年3月に自治寮が開寮した頃を回想した記録に、中馬庚はその『野球部史』で、「遂ニ拍手歓呼スル一群ヲ生ズルニ至レリ。是レ後年我ガ部ノ試合ニ活気ヲ与ヘシ野次隊ノ起源ナリ」と書いている。ここにいう〝野次隊〟とは、声援隊あるいは応援隊と同じ意味で使ったと思われ14る、とある。ここから推測するに、この「野次隊」などと呼ばれた自然発生的な学生集団が、恐らく応援団の起源と考えられる。15

 一高に自治寮が完成して約1ヶ月後には、寮生たちの結束を高める絶好の行事が迫っていた。当日は、悠々半艇身の雄を以て決勝線に入る。吾校聲援隊狂喜して勝利を祝ふ16とあるように、明治23年4月13日に隅田川で挙行された高等商業学校(現一橋大学)とのボートレースにおける「聲援隊」が、公式の試合で組織的応援活動を行った最初の記録である。17

 しかしながら、当時の応援の手法は今日のものと大きく異なり、野次と大騒音で敵を罵倒し、敵選手のプレーを妨害するという〝一高流の応援法〟18とある通り、およそ模範生からは程遠い様相を呈していた。そこで、現在のような応援方法が形成されていく過程で大きな影響を与えたものとして、1900年代初頭から絶大な人気を誇っていた早慶戦19を挙げねばならない。まずは慶應義塾側の記録である。

 明治三十八年(一九〇五)秋、両校応援席の熱気が沸騰した。十月二十八日、早稲田運動場においておこなわれた第一試合は、5-0で本塾が完勝。それを受けて十一月八日に三田綱町グラウンドで挙行された第二試合は、0-0のまま緊迫した投手戦がつづいていた。突如運動場に異変が起きたのは八回の表、まさに早稲田の攻撃がはじまろうとする瞬間であった。……(中略)……観客席の端からあらかじめ決められた塾生が次々と学生服を脱ぎ、慶應応援団はみごとスタンドに黒地に白く「KO」の人文字を作ったのである。20

 

 これに対して、早稲田側の記録を引用する。

 明治三十八年秋、野球ファンの間では、早稲田と慶応義塾との試合に大きな注目が集まっていた。……(中略)……第三回戦の前日、選手が練習している戸塚グラウンドに行き、差し入れを提供して、「明日の第三回戦は一同一ヶ所に陣を取り、あらん限りの声を張り上げて声援する。」と激励した。

 すると、これを見ていた安部部長は、「諸君がその意気ならば、幸い良いものがある。応援は整然とやりたまえ。」と言って、アメリカ遠征の際に現地で目の当たりにした応援方法について寄宿舎生に話した。

 アメリカでは、日本のように観客それぞれが無秩序に拍手をしたり、怒鳴ったり、喝采したり、彌次やじったりすることはなく、応援者が整然と自校側の見物台を占領して、カレッジカラーの旗を手に手に打ち振りながら、カレッジエールを唱えるという。カレッジエールとは、野球競技に精通したリーダーの音頭に合わせて他の観衆と声を揃えて一斉に唱える嬌声きょうせいで、一種独特の調子がある。また、このリーダーは選手と同様、試合に備えて日々の練習を積んでいなければならないという。

 日本の野球試合における観衆の彌次は、ほとんど学生の体面を汚すまでに狂奔したもので、特に一高が得意としている彌次の飛ばし様は、時として人身攻撃にわたることがあり、いかにも劣等であった。……(中略)……早稲田の寄宿舎生によって初めて行われたこの正々堂々の応援は、旧来の罵詈ばり、冷評等の悪彌次を一掃することとなり、世間もこれを大いに歓迎したのだった。21

 

 応援団の歴史をさかのぼると、この辺りが現在の応援スタイルの最古の記録ではなかろうかと推察する22。声の出し方のみならず、「リーダー」という言葉を用いる点、リーダーは選手と同様、試合に備えて日々の練習を積んでいなければならないとする考え方など、今日の応援団・応援方法のルーツは当時のアメリカにあるようだ。そもそも「フレー」という言葉も、一説によれば英語の「万歳!」の意味を表わす「hurray」に由来しているとされる23。その後、早慶戦を始めとする学生野球の過熱とともに様々な手法が考案され、応援のスタイルは日本独自の発展を遂げていく。

 現在の応援団は、戦後すぐに復活したものや新たに発足したものなど各校の歴史的背景によりそれぞれ異なるが、多くの場合は愛校心に燃え、母校の選手を応援しようという血気盛んな若者たちの集まりが原点であった。野球から始まった応援団は、次から次へと多岐に渡って活動するようになる。入団希望者は後を絶たず、学校にも信頼され、権限を委託された筋の通った男たちが、強烈な風紀委員的役割をも担っていく。当時の若者たちは、そういった雰囲気に憧憬しょうけいの念を抱いていたのである。

2 応援団的文化について

(a) 応援団のユニフォーム「学ラン」

 応援団員は他の生徒の模範的存在であることを目指している。従って、応援団のユニフォームなるものを強いて挙げるとするならば、学校指定の制服をそのままユニフォームとして捉えることができよう。学校の伝統を体現するために、現在では使用されていない学生帽を蘇らせる場合もある。

 ちなみに学生服のことを「学ラン」と呼ぶが、もともとは「学蘭」と書いた。「蘭」とは衣類を意味する江戸時代の隠語であり、「オランダ」→「ランダ」→「ラン」に由来する24。応援団の学ランといえば、高いえりに長い丈(長ラン)、太いパンツ(ボンタン・ドカン)といった変形学生服をイメージするかもしれない。これらは、高い襟はうつむかないようにするため25、長い丈は礼をしても尻を見せないため、もしくは動きを大きく見せることで応援効果を高めるため、太いパンツは演技の激しい動きによって破れるのを防ぐため、といった理由が挙げられるようだ。いずれももっともらしい理屈に聞こえる。しかし私個人としては、応援団員は学校の規則に従った、生徒として相応しい身だしなみであるべきと考える。

 また、羽織袴を着用する場合も見受けられるが、世間で和装が日常的ではなくなった現代であればこそ、なお一層注意が必要である。正しい着付け方法はもちろんのこと、羽織の色に袴の種類、紋の数と格の違いといった基本的な礼装の知識に加え、応援団にはよく見られる長尺の羽織紐の意味や、そもそも学生服ではなく敢えて和装を用いる必要性についても、正しい理解に基づいて着こなすことが求められる。

 以上の事柄については、機会があればまたどこかで触れたい。

(b) 応援団の大きな旗「団旗」

 旗には求心力が備わっている。古くは源氏の白旗・平氏の赤旗のように、自身が所属する軍勢の目印および敵味方の識別を目的としていたものが、ひいては戦場における武士たちの帰属意識を育み、士気を鼓舞する効果をもたらした。戊辰戦争の際には、官軍の証とされた錦の御旗を掲げた新政府軍は大いに勢いづき、それを見た旧幕府軍は一気に戦意を喪失したという。現代においても、学校名の入った大団旗がひるがえることで、生徒たちは学校の一員であることを実感できる。

 ところで、「団旗」と呼ばれる応援団の旗は異常なほど大きい。これは昭和20~30年代にかけて各大学応援団が自らの存在感を誇示しようと、競って大きくあつらえたためである26が、この団旗にも実は深い意味が込められている。

 応援団というと大きな旗(団旗)のイメージを持つ人も少なくありません。試合場などでは、目視でも自校の存在と位置を示す意味から、一般的な旗よりは大きく作られています。応援団では大学の応援という意味から学章を描いた旗が一般的です。大学によっては学長から団旗を授与される形式を採るところもあります。この様に、団旗は学旗の代理旗という意味を持つ面もあり、大切に扱う必要があります。27

 

 応援への効用を考えれば、本来であれば校旗(学旗)そのものを使用すべきなのかもしれない。しかし、雨風にさらされる屋外での使用は生地を傷めてしまうため、その代理旗という解釈で団旗を作製する場合が多い。なお、大きくする理由は、応援される選手から見たときに、応援してくれる仲間が遠くにいても存在を確認できるという視覚的効果を踏まえている。運動部の試合会場でも見られるように、母校の名前が入った横断幕をよく見える位置に掲げ、選手を鼓舞することと同じである。

 また、団旗は応援団の所有物ではない場合がある。たとえば、早大は〝旗〟を応援旗とも団旗とも呼ばないで〝校旗〟と呼んでいる。それは〝旗〟を学校から貸与されたという形式をとっているからである28東京六大学野球で神宮球場にひるがえる塾旗は、義塾から應援指導部に貸与されているものだ29という早慶それぞれの「団旗」は、単なる応援団の用具ではない。学校所有の大切な備品なのである。代理旗とはいえ校旗を託されることで、応援団員は大きな責任を伴うが、これは学校からの信頼の証である。そうすることで、学校から認められた公的な組織の一員としての誇りが生まれる。お預かりしているものを大切に扱うことで、礼節を学ぶこともできる。30

 ただし、「命に代えても団旗を守れ」などといった非常識な理屈を持ち込んではならない。言うまでもないが、旗より命の方が大切である。そもそも校旗とは法などで規定されているものではなく、学校の備品として設置しなければならないものではない。現に、金沢大学には平成13年まで校旗に関する規程が存在しなかった31し、津田塾大学には今でも校旗のみならず、校章・校訓・校歌も存在しない。校旗の誕生は、明治時代の学校令公布を受けて設立されていく各校それぞれのニーズに起因するため、作製までの経緯は学校によってまちまちである。たとえば、皇室の慶事や日露戦争の勝利を祝う際であったり、天皇親閲しんえつ32での生徒・学生による分隊行進の際であったりと、主に忠臣愛国と軍国主義の思想によるものであった。明治22年に制定された旧制一高の「校旗護国旗」に対し、久原くはら躬弦みつる校長は(学生)諸子は皇室国家の大恩を忘れざると共に忠君愛国の標旗たる此旗に対して十分赤誠の意を表すべきなり33と演説している。この校旗の前で最敬礼をしなかった嘱託教員の内村鑑三は不敬だと非難され、辞職した。

 かつて戦場では旧陸軍軍旗を「兵器」と見なし、敵に奪われることは最大の恥辱であるとされていたため、兵士たちは文字通り命がけで守ったという。今日の校旗は塩瀬しおぜ34の生地に房飾りという軍旗の様式を模倣したものばかりであるという点から、校旗に倣った団旗のルーツは軍旗とも捉えられる。だからといって、昔日の極端な取り扱い方に影響を受け、団旗を過剰に神聖なものと見なして崇めたてるような行為は、もはや時代錯誤なのではないだろうか。もちろん大切に管理することは重要であるし、教育的観点からも行うべきだと思う。しかし、今日の教育現場の置かれている状況も果たすべき目的も、戦前とは全く異なっているという当たり前の大前提を忘れてはならない。

 昨年、本会は「応援旗」を作製した(図3)。そもそも「団旗」とは「団」の「旗」なので、本会では体育祭各組応援団のための団旗を三色3本管理している。今回作製した旗は委員会の旗であるため、厳密には「会旗」なのだが、普段は「応援を目的とする旗」という意味を込めて「応援旗」と呼んでいる。畳7枚分もの大きなサイズであつらえた理由は、もちろん視認性を高めたためである。デザインには「本郷」と一目で分かる目印、通称「Hマーク」を、学校長の許可を得て使用した。なお、色は本郷を象徴するコバルトブルー35を採用している。

図3 応援旗

(c) 応援団の振り付け「リーダー」(テク)

 選手を応援するため、応援団は大きな声を張り上げる。しかし、更に力強い効果を生む方法がある。それは観客の声を一つにまとめることである。特に、お互いが相手校を応援する「エール交換」は、敵である相手の健闘を祈ることで正々堂々戦うという誓いの儀式のようなものだ。試合後には相手の活躍を讃え、尊重し合う36。それらを成立させるためには、優れた応援技術が必要となる。応援団ではこの指揮を執るための振り付けのことを「リーダー(技術)」と呼ぶ。37

 かつて早稲田大学応援部の礎を築いた野中虎之助監督は、スタンドに立って学生を指揮することは、一見派手なように見えるかもしれないが、決して派手な仕事ではない。また、派手であってはいけない。スタンドに立った時は、応援学生の代表であるという信念を抱いてかからねばならぬ。応援の技術は観衆に見せるものではない。選手の士気を鼓舞する糧なるものであるから、浮ついた行動をとることはできないのだ38という言葉を残している。応援団のリーダーとは、人前でただ目立つために行うものではなく、観衆全員の声を合わせるために考案されたものである。

 しかし、時代とともに歌舞伎の要素39や相撲・空手の型40、音響効果41などが取り入れられることで、リーダーには芸術的要素が備わっていく。人々に統一した動きを要求するためのリーダーは、効率化を目的として華やかさが加わり、いつしかリーダーを観ている人々に感動してもらうことで応援する、という形式に発展していく。すなわち、「選手のために観客をまとめる応援」ではなく、「観客を感動させるための応援」である。

 甲子園の大会などを見ていると、応援の手法を他校応援団から借用していると思われることが多い。これはプロ野球とて例外ではない42。それだけ、応援団の応援方法が魅力的であるという証拠であろう。ただ、他校のものを使用する際に気を付けなければならないことがある。それは独自性である。特にリーダーは、その学校特有の意味付けを盛り込んでいる場合が多い。たとえば本会の校歌のリーダーは、同じ動きが1番で5回登場する。これは本郷の「本」の文字を表現している。こういった理由から、もし他校のものをそのまま真似してしまうと、本質的な意味を理解せず、誤った動きになってしまう恐れがある。

 リーダーとは、人々を惹きつける芸術性に加え、その学校のオリジナリティーを表現したものなのである。

おわりに

 昨今の応援団のほとんどは吹奏楽部とチアリーダー部を擁しており、三部合同で活動することが一般的だ。しかしながら本稿では、日本独特の文化である43、学ラン姿で大音声だいおんじょうを上げるタイプの応援に焦点を絞って考察を試みてきた。

 応援団の使命は、大きく分けて二つある。まず第一は、学校の伝統を守り、各クラブ活動を先頭に立って牽引し、支えていくこと。第二に、自己の心身鍛錬、すなわち人間修養を目指すことである。簡単にいうと以上二つの目的をなすために応援団は存在する。44

 

 「第一」については、これまでに述べた通り、愛校心に溢れ、リーダーシップを発揮できるよう、応援活動を通して模範的な存在であるよう努めることと一致する。「第二」は、もちろん体罰などの行き過ぎた指導を肯定するための方便であっては決してならないが、昔から応援団の眼目には「人間修養」が含まれていた。すなわち、教育的意義を見出そうとしていたのである。

 教育実践という視座で応援団を捉えなおすとき、本会の指導者全員が教育目標として掲げている生徒像は、「紳士的で、主体性と責任感とを持ち、目標に向かって実践できる生徒」である。特に生徒たちには、自らの価値を見出し、自信を持って巣立っていってほしいと考える。自己肯定感を高め、自信を得ることこそが、彼らの今後の人生において何よりも必要不可欠だと考えているからだ。オーストリアの精神科医で心理学者のアルフレッド・アドラーによれば、自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること。そこではじめて、われわれは自らの価値を実感することができる45のだそうだ。本当の自信を獲得するためには、他者から認められることでも、褒め称えられることでもない。実は、感謝の言葉をもらうことが最も重要なのである。そういった意味において、応援団とは極めて有用な環境であると私は確信してやまない。だからこそ、応援団に関係する全ての方々へ、常に心に留めておいてほしいことを最後に述べたい。

 毎週のように応援団の活動に顔を出すようになり、団員たちが目に見えるようなスピードで成長を重ねるのをびっくりしながら見てきました。

 入部した生徒たちは、応援団の厳しい礼儀作法や上下関係に最初は驚きを隠せませんが、見事にそれらを自分のものにし、固い「絆」で結ばれた仲間たちという最高の財産を得て卒業していきます。

 「応援団なんて、バンカラで古クサイ」

 と言われてしまう近年ですが、今の社会だからこそ大切にしなければならないものがあるような気がしました。46

 

 これは2012年5月にフジテレビ系列で放送されたドキュメンタリー番組「ザ・ノンフィクション~青春エール!花の中学生応援団3000日」の番組スタッフ、村井明日香氏の言葉である。応援団は厳しいし、古臭い。これが一般の方の持つイメージであろう。そのようなイメージを払拭すべきだとは思わない。むしろ応援団である以上、バンカラと言われようと古臭いと言われようと、ある程度の応援団は必要である。そのためには、大切にしなければならないものとは何か、という問いかけを忘れず、行住坐臥ぎょうじゅうざがともに真剣に向き合い、本質を見据えた正しい取捨選択──正に「不易流行」を、応援団に携わっている者は(それなりの立場にある者はなおさら)実践していく必要がある。

 かつて応援団を標榜する団体が、傍若無人に振る舞うことを応援団らしい態度だと勘違いし、世間の評価を低下させたことがあった。今日の低迷も、過去のこの行いが影を落としている。電通でスポーツビジネスを展開し、順天堂大学の教授も務めた間宮聰夫としお氏は、今日の応援団についてこのように言及している。

 母校愛と礼節に基づく創造性(Creativity)と感性(Feeling)による表現の差異化は当然です。しかし従来のリーダー部中心ではなく、チアリーダー部、吹奏楽部の三位一体で、学生のスポーツのみならず文化活動をサポートすることによる一般学生の信頼回復は焦眉の急です。

 一般学生の生活意識から乖離しては応援団は存在しません。人生八十年時代を迎え、七〇万時間を自らデザインしなければなりません。肩肘をはり形式美を追求するあまり、一般学生から敬遠されてはいませんか。47

 

 応援団のしきたりには、厳格なこだわりを見せる割に、実は根拠の曖昧な場合もある。小笠原流礼法宗家いわく、かたちにばかりこだわる礼法など存在しない。……(中略)……「なぜその作法が存在するのか」という理由をしっかりと理解し、自分なりに咀嚼そしゃくすることが大切なのだ48これからの時代の応援団が取り組まなければならないことは、一つ一つの作法を検証して、応援の理論を構築することではないだろうか。建学の精神や教育理念と照らし合わせて、母校の発展に寄与し得るかどうかを心掛けながら、新しい応援方法を模索し、実践していくことが大切である。その上で、他校とのネットワークを構築し、互いに尊重し合う。そうすれば、応援団の必要性がきっと世の中に広く認められる。応援団員は、正しい判断のもと世のため人のために力を尽くすことのできる、社会に必要とされる人材へと成長できるはずである。

『塔影』第47集(2014年3月31日)より抜粋、一部加筆

 

  1. [1]金塚基「日本の高等学校応援団の成立と活動に関する一考察」(『東京未来大学研究紀要』Vol.10・2017年)195頁によれば、昭和4年(1929年)に発行された『全國大學校専門學校中等學校野球部應援歌全集』(盛進堂書店)によれば、紹介されている応援歌全125集のうち、中等学校のものが80集を占めており、大学、高等学校、専門学校を凌ぐ圧倒的な割合を占めているとある。なお、戦前の旧制中等学校とは現在の高等学校に相当する。
  2. [2]この場合のクラブとは、かつての学習指導要領(「中学校」1972年改訂・「高等学校」1973年改訂)において教育課程に組み込まれ、特別活動の一領域として必修化された「クラブ活動」のことではなく、現行の生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動については,スポーツや文化,科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等,学校教育が目指す資質・能力の育成に資するものであり,学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう留意する(『学習指導要領(「中学校」平成29年3月告示・「高等学校」平成30年3月告示)』・第1章総則第6款1ウ・文部科学省)ものとする部活動や、特別活動の一環として異年齢の生徒同士で協力し,学校生活の充実と向上を図るための諸問題の解決に向けて,計画を立て役割を分担し,協力して運営することに自主的,実践的に取り組むことを通して……(中略)……資質・能力を育成することを目標とした学校の実情や伝統によって種々設けられるとある各種の委員会(いずれも『学習指導要領解説(「中学校」平成29年7月・「高等学校」平成30年7月)』・文部科学省)および大学などの課外活動団体のことを指す。
  3. [3]丹羽典生『応援の人類学』(青弓社・2020年)63~64頁によれば、応援団の説明として、課外活動団体(サークル)の一種である。活動としては、各種スポーツサークルの試合応援を中心に、入学式・卒業式などの儀礼から学園祭、ホームカミングなどの祝祭的な場での進行や裏方、文化系サークルへの手助けまで、さまざまなことをおこなっているとある。また、辰巳正夫『エールを送って駆けて60年 早稲田の応援団長から大阪市議へ』(清風堂書店・2017年)34頁によれば、競技場で応援者をまとめて、応援という団結した声援を競技の勝利に結びつける指導を行うクラブとある。これらは主に大学の応援団について書かれたものだが、高等学校でもこれに準じた活動を行っているのが一般的である。なお、前掲『応援の人類学』に、応援団を応援団たらしめる特徴としては、やはりその独特なスタイルにあるだろう。一般的に「バンカラ」と称されるエートスを具現化していると想定されていて、場合によっては政治的に保守的な思想との関係を連想されたりもする。人目を引く独自の装いや、スポーツサークルの応援や入学式・卒業式などの行事の合間に披露される演舞と称されるパフォーマンスとあるが、本会ではその行事の合間に披露される演舞と称されるパフォーマンスのことを「(リーダー)演技」と呼ぶ
  4. [4]中馬庚『野球』(前川文榮堂・明治30年)239~240頁によれば、有形上ノ勝敗ハ靑年ノ氣ヲ洩ラシ心ヲ勵マスニ最適ノ法タルノミ。故ニ若シ仕合ヲ以テ校譽ヲ賭セント欲セハ啻ニ撰手ノ奮勵スルノミナラス校友タルモノノ任モ亦輕カラサルナリ。撰手練習ノ際ニハ是ヲ見物シ巧妙ナルハ賞讃シ拙劣ナルハ嘲笑セハ自ラ其効アラン。然レトモ嘲笑ハ唯其場限リニ止メ慎ンテ其技術ニ干渉シ其任免ニ容喙スル勿レ。而シテ全校ノ總代タル者ハ常ニ撰手ヲ慰問シテ全校是カ後援タルノ實ヲ示サバ撰手ハ常ニ校譽ノ己レノ双肩ニ懸レルヲ知ラン。若シ夫レ仕合ニ當ツテハ全校大擧シテ臨場シ味方ノ功アル毎ニ拍手喝采スルハ可ナリ。然レトモ慎ンテ敵ヲ嘲罵スル勿レ。吾軍ノ少シク勝ニ乗スルヲ見ハ一齊ニ是ヲ勵スハ大ニ機ヲ得タル者ナリ。殊ニ校歌ヲ同音ニ唱フルカ如キハ最モ宜キニ適ヘル者ナリ。如斯セバ庶幾クハ以テ仕合ハ撰手ノ仕合ニアラスシテ全校ノ仕合ナリ。勝敗ハ撰手ノ勝敗ニアラスシテ全校ノ勝敗ナリ。以テ彼我ノ校風ヲ較スベク以テ愛校ノ念ヲ養フベク以テ校際仕合ノ實益ヲ擧クルヲ得ン(句点は筆者が付した)とある。なお、表記上一部改変した。
  5. [5]「【BIGBOSS×GM】新庄新監督と稲葉GMがファイターズを語りつくす!」(北海道日本ハムファイターズ・2021年12月22日)。また、岸ゼミナールBチーム「応援の形態が野球選手の感情に与える影響」 (岐阜協立大学学内ゼミナール大会・2020年)によれば、応援による成績等の影響を検討した複数の先行研究を引用しながら、応援が選手の感情とモチベーションを高めると結論付けている。
  6. [6]竹内健編『全日本学生応援団連盟結成五十周年記念誌』(全日本学生応援団連盟・平成13年)3頁
  7. [7]慶應義塾大学応援指導部史制作委員会編『慶應義塾大学応援指導部 創部75年記念部史』(慶應義塾大学応援部三田会・平成20年)16頁。なお、ルビは筆者が付した。
  8. [8]杉本雅彦・岩崎智史・金塚基「高等学校における応援部の応援技法に関する考察―発声技法の習熟に焦点をあてて―」(『比較文化研究』No.145・2021年10月31日)110頁によれば、集団的な応援活動は、学校の生徒集団としての一体感を高め、当該学校文化の価値や規範などを再生産・創造することによって、当該学校生徒のアイデンティティの形成・維持に関与しているとある。
  9. [9]本郷学園60年史編纂委員会編『本郷学園60年史』(本郷高等学校・昭和57年)261頁によれば、昭和39~40年に「応援団」が同好会として活動していたことを確認できる。また、平成10年前後までは体育祭で応援合戦が実施されていたという。
  10. [10]國學院大學編『國學院大學百年小史』(昭和57年)171~172頁。なお、括弧内とルビは筆者が付した。
  11. [11]1800年代末期に、現在の東京大学教養学部などの前身にあたる旧制第一高等学校と、京都大学総合人間学部などの前身にあたる旧制第三高等学校の対抗戦が行われ、1906年からは定期戦も行われるようになった。当時は学校の名誉をかけて戦い、新聞社も大々的に報じていたと伝えられる。
  12. [12]東京六大学応援団連盟OB会編『応援団・六旗の下に』(シュバル・昭和59年)102頁
  13. [13]加賀秀雄・鈴本敏夫「旧制高等学校における応援団の組織化の実相とその歴史的役割について」(『日本体育学会第36回大会号』・1985年)85頁。なお、ルビを付すなど表記上一部改変した。
  14. [14]嚶鳴会・一高応援団史編集委員会編『向陵誌 一高応援団史』(一高同窓会・昭和59年)70頁
  15. [15]札幌農學校學藝會編『札幌農學校』(裳華房・明治31年)79頁によれば、吾校(北海道大学の前身である札幌農学校を指す)有名なる遊戯會は此時を期して開かる。斯の會や其源を明治十一年に起しとあり、谷口哲也編『応援団史』(北海道大学応援団・昭和53年)2頁遊戯会予科応援団の章によれば、この「遊戯會」にて各科学生は、それぞれの代表選手に対して激烈なる応援を操(ママ)り広げたのである。ここに各科ごとの応援団が誕生することになった(どちらも括弧内は筆者が付した)とある。この記録は一高の「野次隊」より古い起源を持つ可能性があるが、これらの応援団が何時頃発生したかは定かではないとする点や、豫修科の應援隊……(中略)……「フレ豫科フレ豫科」の歓声遠く暮霞に高し……(文武会々報第五十五号より)とある点からも、恐らく後述の明治38年秋季早慶戦以降に形作られた組織なのではないかと考える。
  16. [16]『向陵誌』第二巻(第一高等學校寄宿寮・昭和12年)1142頁
  17. [17]細谷俊夫・奥田真丈・河野重男・今野喜清代表編『新教育学大事典』第1巻(第一法規出版株式会社・平成2年)240頁によれば、日本では,自校の運動部の競技を応援するために組織されたのが応援団の始まりである。正式の応援団を組織して応援をした競技会は,1890(明治23)年に隅田川で行われた第4回第一高等学校(現東京大学教養学部)と東京高等商業学校(現一橋大学)との間で行われたボートレースのときだといわれているとある。また、前掲『向陵誌 一高応援団史』47頁によれば、この第四回戦(明治23年のボートレースのこと)で初めて組織的応援団が登場したのである(括弧内は筆者が付した)とある。
  18. [18]前掲『向陵誌 一高応援団史』39頁による。また、服部喜久雄編『一高三高野球戦史』(昭和29年)14頁によれば、野蛮さから云うと万事一高の方がうわ手のようにみえる。……(中略)……一高応援団──団という名称は少し良すぎる──。弥次の群と名付ける方がふさわしいかも知れぬ。ネツトの裏には、石油カンに礫を入れた無数の雑音と白旗の乱舞、三塁近くには、柔劍道部の猛者が、間余の青竹をめい\/持つて屯している。ゴロが来ると、この竹で地面をたたいて砂煙をあげて、初舞台のこの僕(三高の選手、木下道雄のこと)を、へこませようという算段(括弧内は筆者が付した)とある。このように、当時は実質的な妨害も行われていた。
  19. [19]早稲田大学と慶應義塾大学との対校戦を指す。慶應義塾側が「慶早戦」と呼ぶ場合もある。明治36年に行われた硬式野球の試合を起源とし、プロ野球発足以前より日本野球の発展に貢献した。現在でも東京六大学野球リーグ戦の最終週に、両校の順位に関わらず単独開催を行っている。
  20. [20]前掲『慶應義塾大学応援指導部 創部75年記念部史』10頁による。『時事新報』(明治38年11月9日)によれば、唯見れば兼て用意やありけん、階段に陣取りたる慶軍の応援者、一端より徐々に服を脱し行けり。見れば始めよりKOの二字を現すべく陣取り居たる者にて、黒き服の間に正しく白き襯衣シャツにて二字を現出したるは妙案と云ふべく、拍手起る間に立現れしは早軍の泉谷なりとある。
  21. [21]早稲田大学応援部創部70周年記念事業実行委員会編『創部70周年記念 早稲田大学応援部史』(早稲田大学応援部稲門会・平成22年5月23日)27頁による。なお、ルビは一部筆者が付した。また、注釈には『彌次』:この時代、応援は「彌次」と言われていた。これには「人の言動をひやかし嘲弄して妨害する」という意味はもちろん、「見物する」という意味もあった。また、「そのような行動をする人」という意味でも使われていたとある。
  22. [22]早稲田スポーツ百周年記念誌編集委員会編『早稲田スポーツ百周年記念誌』(早稲田大学体育局・2000年)685頁によれば、今や応援と言えば、日本のどこでも何にでも使用される「フレーフレー」のエールであるが、このエールは我が早稲田のカレッジエールであり、組織的団体応援という一新紀元を作った早稲田は実に日本応援の祖なのであるとある。また、前掲『向陵誌 一高応援団史』98頁によれば、三十八年秋の早慶三連戦は、わが国の野球とその技法を一変させただけでなく、応援の方法にも一大旋風をもたらしたとある。
  23. [23]『朝日新聞』(平成24年10月29日付朝刊)によれば、「英語語源辞典」(研究社)の編者でもある寺沢芳雄・東大名誉教授は、「huzza(フザー)」という言葉から派生したという見方を教えてくれた。16世紀ごろまで船員たちが「帆を巻き上げろ!」「力を振り絞れ!」などという言葉で、気合の言葉として使っていた。それが「hurrah(フラー)」→「hurray(フレー)」と変形したとある。また、「天声人語」(平成29年9月29日付朝刊)には(帝国大学の)英国人教官が体育祭で学生に教えた(括弧内は筆者が付した)とある。
  24. [24]ろっきプロ『六大学花の応援団 ガクランに敬礼』(ノラブックス・1984年)143頁によれば、ラン〔蘭〕着物。衣類。〔←オランダの上略語ランダの下略語。最初ランダは洋反物・洋服に使われていたが、ランと略されてからは、元の意味が忘れられて和服の場合にも使われるようになった〕とある。
  25. [25]重松清『あすなろ三三七拍子(上)』(講談社・2014年)46頁によれば、顔を下げると、襟が喉や顎に食い込んで痛いだろう。学ランの襟は、これを着ているうちはどんなことがあってもうつむかないぞ、胸を張って前を向くぞという誓いの証なんだとある。また、NHK総合のバラエティ番組「チコちゃんに叱られる!」第65回(令和元年10月4日放送分)では、学生服のモデルと考えられる18世紀ヨーロッパの軍服は首にしっかりとした襟があると顔が下がらず 堂々と男らしく見せるために詰襟を採用した、と紹介している。
  26. [26]団旗の巨大化の端緒については、今のところ定かではない。一説には、昭和21年に慶應義塾大学應援指導部所有の「幻の大塾旗」を作製した際、単位を間違えて発注したために旗手1名では支えきれないようなサイズのものが出来上がってしまい、そのことが団旗を大きく作製するきっかけとなった、というものがあるが、前掲『一高三高野球戦史』の口絵を見ると、昭和7年の時点ですでに大きな旗を掲げている三高応援団の様子が確認できる。
  27. [27]『高崎経済大学 学生応援団教範』(高崎経済大学直属応援団・平成23年)44頁。なお、表記上一部改変した。
  28. [28]前掲『応援団・六旗の下に』4頁
  29. [29]渡部淳編『塾』第255号(慶應義塾・2007年)29頁
  30. [30]本会では、平成31年4月3日に本校より校旗の寄贈を受け、特別な場合に掲揚するなど責任を持って大切に管理している
  31. [31]金沢大学総務部企画広報室編『月刊アカンサスニュース 金沢大学広報誌』第53号(平成13年)1頁
  32. [32]日中戦時下の昭和14年5月22日、宮城(皇居)前広場にて行われた「陸軍現役将校配属令施行十五年記念親閲式」のこと。小森良夫『市民はいかにして戦争に動員されるか―戦争史の底辺を歩んで』(新日本出版社・2008年)74~76頁によれば、戦争遂行のために全国の学生・生徒を思想動員していく……(中略)……この親閲式において、天皇からじかに「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」が文部大臣に下賜されるとあり、水崎雄文『校旗の誕生』(青弓社・2004年)33頁によれば、「御親閲拝受要領」には……(中略)……次のような注意事項が記されている。 一 左記学校ニシテ校旗アルモノハ之ヲ携行スルモノトスとある。
  33. [33]前掲『校旗の誕生』33頁
  34. [34]塩瀬羽二重のことで、生糸を使用した厚地の絹織物の一種。高級織物の素材として、校旗や優勝旗などによく使われている。
  35. [35]前掲『本郷学園60年史』62頁による。また、本郷学園校史編纂委員会編『本郷のあゆみ 1921-2006』(本郷中学高等学校・平成18年)58頁によれば、戦前、松平賴壽校長が軽井沢で病に倒れた際、昭和天皇からお見舞いとして下賜された白絹を紫色に染め、校旗の布地としました。しかし、布地の幅が狭く数枚繋がなくてはならなかったため、服部季彦図工科教諭の提案によって、新たにコバルトブルーの同系色の布地を使って継ぎ目を隠すこととなりましたとある。
  36. [36]経済学者で文仁親王妃紀子殿下の父である川嶋辰彦は「応援やスポーツのよさだと思っているのは、最後に相手のチームを讃えることです。例えば、AチームとBチームが戦っていたとしたら、Aチームが“フレフレ! Bチーム!”と、なさる……。あそこが、応援の中で最も感動するところですね」とし、「応援は人を励ますだけでなく、喜ばせるマジックです」「(応援団は)“応援の喜びの拡大再生産”をお担いになってこられた」(括弧内は筆者が付した)と述べている。(『週刊女性』2021年11/23号)
  37. [37]学校によっては「テク」「型」などと呼ぶ。たとえば、学習院大学応援団創立五十周年記念誌編集委員会編『応援団の五十年 学習院大学応援団創立五十周年記念誌』(学習院桜援会・平成14年)23頁によれば、当時、高等科は四百人くらい、それをまとめることを初めてやった……(中略)……この方の型がすごいカッコいいリズミカルな応援をするとあり、『第三十八回「日輪の下に」パンフレット』(不動岡高校応援部・平成25年)14頁によれば、曲やテクも現在の形に統合され、本校・応援部の伝統をさらに盛り上げているとある。また、「リーダー」とは中央に立って指揮を執る者(センターリーダー)そのものを指す場合が多く、それ以外を「ウケ」「サイド」「サブ」「サブリーダー」「バック」「屏風」「観音」「客前」「列員」「兵隊」などと呼ぶ。あるいはそれらを全てまとめて「リーダー」と呼称する場合もある。たとえば、『東海大学応援団 創団五十周年記念誌「栄光」』(東海大学応援団・2014年)7頁によれば、リーダー、バックと一体となり、勝利を勝ち取るとあり、前掲『六大学花の応援団 ガクランに敬礼』216頁によれば、【サブ】センターリーダーと幹部以外の下級生のリーダーのこと。明治と慶応での名称。客席の中に入り込むという意。東大では「サイド」と呼ぶ。単に「リーダー」と呼ぶ場合も多いとある。本会では「リーダー」は前者のセンターリーダーを指すという意味で使用していたが、そのリーダーが用いる技術、すなわち「リーダー技術」が省略され、今日では技術そのものに対しても「リーダー」の呼称を用いられるようになった。
  38. [38]「第60回早稲田大学稲穂祭」(平成25年10月30日)の「応援部プレイバック~応援テクニックの精神~」講演内容より。
  39. [39]前掲『早稲田大学応援部史』51頁によれば、(野中は)色々な所へ出掛けて広く観察の眼を開き、歌舞伎の『勧進帳』にある「弁慶が六方を踏む仕草」が応援の拍手の呼吸に合うとして……(中略)……研究を続けた結果、昭和14年の秋、ついに「勝利の拍手」を完成させたのである。この拍手は弁慶の六方を取り入れただけでなく、小柄な身体を大きく見せることができるようにするなど野中自身の独創的な要素も加えられていたとある。「六方」とは、主に舞台から花道を通って引っ込む時に、特別に大きく腕を振って足を力強く踏みしめながら同じ方向の手足を同時に動かして歩く演技である。なかでも弁慶に代表される「飛び六方」は、片手を大きく振って勢いよく足を踏み鳴らしながら花道に引っ込む六方であり、無事落ち延びた義経一行を追うために力一杯走っている様子を表現している。
  40. [40]前掲『応援団・六旗の下に』92頁によれば、明治のテクニックは相撲の不知火型から生まれた〝相撲型〟といえます空手の動きが基礎になった応援の型、いわゆる法政の〝空手型〟が誕生したのですとある。
  41. [41]声と動作から始まったリーダーには、ブラスバンドの導入により校歌斉唱や応援歌などの伴奏が加わっていく。そして昭和40年秋に登場した「コンバットマーチ」によって、学生の声を爆発的に引き出すことができると同時に、その声と音楽を巧みに融合させることで応援効果を高めることができる(前掲『早稲田大学応援部史』79頁)「応援曲」という概念が生まれ、今日では当たり前である音楽主体の応援手法が次々に考案されていく。
  42. [42]東京ヤクルトスワローズの私設応援団が慶應義塾大学應援指導部の応援曲「ダッシュケイオウ」を、阪神タイガース・広島東洋カープでは「コンバットマーチ」をそれぞれ使用。なお、カープのものはファンファーレこそ早稲田大学応援部に近い演奏(「ファンファーレ1」の前半部分)だが、基本的なメロディーラインは「ダッシュケイオウ」である。また、2012年には明治大学応援団の「ハイパーユニオン」を導入した。
  43. [43]Gudrun GRAEWE「応援団について―キャンパス・ライフに不可欠の団体か奇妙な遺物か―」(『立命館言語文化研究』14巻2号・2002年)187頁によれば、応援団(応援部,応援指導部ともいう)は通常,リーダー部(指導部ともいう)と,音楽演奏を行う吹奏楽部,そしてチアリーダー部から成り立っているが,ここでは取り分け日本にしか存在しない集団としてのリーダー部を考察の対象としたいとある。
  44. [44]坂口拓史『ザ・シゴキ―実録 応援団』(株式会社時事通信社・昭和62年)81頁。なお、本書は小説の体裁を採っているものの、あとがきには本書の内容はすべて事実に基づいているとある。
  45. [45]岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教え』(ダイヤモンド社・2013年)206頁
  46. [46]村井明日香『ザ・ノンフィクション 花の中学生応援団 泣いて笑った成長物語』(朝日新聞出版・2013年)219頁
  47. [47]「全日本学生応援団連盟結成五十周年記念 応援団セミナー」(平成12年10月22日)の記念講演内容より。この事業の趣旨は「学生応援団を、社会的・常識的に検証する」とある。
  48. [48]小笠原流礼法とは、室町時代に確立した武家の礼法である。今日においても「相手を大切に思うこころ」を基底とした、伝統的でありながら現代社会に活用できる礼儀作法の普及活動を行っている。引用は、小笠原敬承斎『誰も教えてくれない 男の礼儀作法』(光文社・2010年)18頁によった。