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学校教育における「応援団」をめぐる考察

――本郷学園応援委員会の活動を通して――


監督 横尾朗大     

目次
 はじめに
 一 応援団は必要か否か
 二 本校での取り組み
  1、応援活動のきっかけ
  2、応援委員会設立の経緯
  3、現在の活動状況
 三 応援団の謎
  1、応援団の起源について
  2、応援団的文化について
   (a)応援団のユニフォーム「学ラン」
   (b)応援団の大きな旗「団旗」
   (c)応援団の応援技術「リーダー」
 おわりに



はじめに

 「フレッ フレッ 本郷!」
 体育館に大きな声がこだまする。昨年9月、本郷祭の参加団体最後のステージ。本校に足を運んで下さった大勢の来場者の前で、学ラン姿の生徒たちが声を張り上げる。
 「本来、応援の精神とは利他主義が本懐であり、それはボランティア精神です。自分自身のことではなく、頑張ろうとする他者を支援すること。また、頑張る人を支援したい、と思う人々の心をリードし、一つにまとめ、大きな力へと換えて送り届けること。これが今も昔も変わらない、『応援団』の存在意義であるはずです。そのためには、頑張る対象者の気持ち、応援しようと思っている人々の気持ちを汲み取り、皆さんが望んでいることに応えられる存在でなければなりません。」
 彼らは本郷学園応援委員会。設立してわずか2年目の、本校の「応援団」である。今回で5回目を数える「本郷祭リーダー演技披露」は、同じ中高一貫の男子校である城北学園の応援同好会を招聘し、2校による本城応援合戦を実施したのだ。

 2008年公開の映画『フレフレ少女』。応援団未経験の文学少女が団長として活躍する。また、2010年に刊行された重松清の『あすなろ三三七拍子』。会社の業務命令で大学の応援団へ出向するはめになった、45歳のサラリーマンを描いた物語である。最近の応援団が題材になっている作品のいくつかを見てみると、ある共通点に気が付く。それは、どれも一様に廃部(団)寸前で描かれているということである。
 確かに今日、応援団文化は衰退の一途を辿っている。存続していても、数名で活動している例は決して珍しくない。その活動においても、体育祭限定であったり、文化祭の出し物としてのみであったりと、年間を通しての活動はしていない場合も見受けられる。
 衰退してしまった理由は何だろうか。1つ目に、時代の流れが挙げられる。昔ほど、生徒たちの愛校心や帰属意識は高くなく、男臭さも流行らない。2つ目が、応援団の評判が決して高くはなかったという点である。一昔前までは、威圧的な態度の応援団員も少なくなかったと聞く。3つ目に考えられる理由は、正しい応援理論の欠如である。指導者が絶対的に不足しているのだ。これは2つ目の理由も誘発している。そもそも、応援団を正しく指導するためのネットワークが存在しないのである。これだけ社会に認知され、学校教育の課外活動としても認められている応援団の、全国的な連盟なり協会なりが存在しないということには、疑問を抱かずにはいられない。
 かつては大学だけでなく、高校にも多数存在した応援団。一体、この団体はそもそも何なのか。そして、現代において必要なのか。本稿では、本校での取り組みを紹介しつつ、今日の応援団の在り方について考察していきたい。
 なお、一概に応援団と言っても、応援部・応援指導部・応援団リーダー部・応援委員会など、学校によって様々な呼称がなされている。他にも、プロ野球の私設応援団や「子育て応援団」のようなNPO法人も存在する。そのため、本稿では「生徒・学生による応援の精神を基調とする団体」のことを、一括して「応援団」と表わすこととする。

一 応援団は必要か否か

 応援なんて、試合があって初めて成立する。選手がいなければ、応援なんてできないじゃないか。応援団なんて所詮二次的な存在であり、あってもなくても変わらない――。確かにそうかもしれない。しかしその場合、「○○高校応援団」ではなく、たとえば「○○高校○○部応援団」のような、特定の団体の専属応援団ということになってしまう。
 「ヒゲの殿下」で親しまれた、ェ仁親王殿下は次のように述べられている。
 「私が応援団に強く惹かれますのは、母校を大切にする組織であるという点です。(
1)」
 せっかく学校の名前を掲げるのであれば、学校そのものを応援する存在でありたい。母校を愛し、母校のことを熟知している。校内にゴミが落ちていれば進んで掃除を行う。校則を遵守するどころか、違反する生徒には正しく注意できる。学校の模範的存在、それが応援団の理想像である。
 模範生に求められること、それはリーダーシップである。たとえば、校歌の指揮を執る応援団員の姿を見たことはないだろうか。これについて、古いエピソードではあるが一つ紹介したい。

 翌年(昭和八年)、慶應義塾応援部にも林毅陸塾長から正式な創部を祝して指揮棒が授けられた。指揮棒は長さ六尺(180センチ)余りの樫材の先端に岩の上で羽ばたく金色の鷲が彫刻され、岩には塾長の筆になる「自尊」の文字が彫ってあった。(2)

 ここから分かるように、慶應義塾の応援団の場合、学校当局から正式に指揮権を与えられている。与えられた以上、しっかりと役割をこなさなければならない。学校の原点である建学の精神が込められている校歌を一緒に歌うことで、生徒たちは自ずと仲間意識を共有できる。ここに団旗が加われば、連帯感は更に増す。
 愛校心に溢れ、リーダーシップを執ることができる模範的生徒の集まり。応援団がそのような団体であれば、現代でもきっと必要とされるに違いない。

二 本校での取り組み

1、応援活動のきっかけ
 本校の応援団(応援委員会を指す。後述の体育祭応援団との混同を避けるため、以下、「本会」とする)は、平成18年の6月に端を発する。当時、生徒会長を務めていた岸拓真君と、生徒会指導委員会で体育祭を担当されていた北村宏貴教諭から、「体育祭で応援合戦がしたい」という話をいただいたことが始まりだった。もともと本校には応援団が存在していたようだが、紆余曲折を経て消滅してしまったと聞いている。現在、その痕跡を見出せるものは、昭和の頃に寄贈されたという和太鼓4張のみである。
 応援合戦の演技については、熟慮に熟慮を重ね、とても苦労した記憶がある。応援席に座っている生徒たちの興味を惹き、なおかつ昂揚感を喚起し得る演出となると、内容の充実ばかりでなく、生徒たちとのジェネレーションギャップにも配慮して指導しなければならない。応援の精神論から説明したところで、正しい応援団の概念というものは簡単に理解できるものではない。何よりも、せっかく興味を持ってくれた応援団に対して抵抗を感じてほしくなかった。結論として、まずは応援の精神を踏まえている既成の演技のいくつかを選別し、生徒たちに紹介したのである。そのなかで、彼らのイメージと合致した「国大音頭」についての説明を引用する。

  (GHQは)昭和二十三年十二月十五日、神道指令を発して神社に圧迫を加えた。これは、創立以来、神社界から経営上多大の援助を受けてきた本学にとっても重大なことであった。……(中略)……こうした状況を憂えた折口信夫教授は、「国大音頭」を作詞し、学生を元気づけようとされたのであった。……(中略)……曲は炭鉱節を流用することになったが、踊りは、花柳一輔氏に振付けを依頼した。(
3)

 現存する「国大音頭」は、当初の日本舞踊の振り付けに加え、空手の型を取り入れた力強い演技となっている。動きの一つ一つに、母校の発展を願う祈りが込められている。そのなかで、右手を手前に引き、両手をずらして拍手をする動きがある(図1左)。実は、これは神社へ参拝する際の作法「二拝二拍手一拝」の拍手「柏手(かしわで)開手(ひらて))」に由来する。本校が神道系の学校法人ではない以上、同じ動きをそのまま導入することは相応しくない。従って、関係諸氏の許可を得て改変を加えたものが、現在「本郷音頭」として受け継がれている。(図1右

図1

図1(左:「国大音頭」 右:「本郷音頭」)


2、応援委員会設立の経緯
 体育祭を目的とした応援団が毎年結成されるようになって3年目のこと。これから大学入試に挑戦する高校3年生へ向けて壮行会を企画してほしい、という依頼をいただいた。この年から、3学期の始業式後に応援団経験者の有志が集い、壮行会を行うようになる。しかし担当する生徒が毎年入れ替わるため、行事の内容が充実しないという問題を抱えていた。
 続いて翌年の9月、台風の接近とインフルエンザの流行によって体育祭が中止に追い込まれた。そのため、体育祭応援団は翌週開催の本郷祭で練習の成果を披露した。これをきっかけとして、6月の体育祭だけではなく、9月の本郷祭、翌年1月の受験生壮行会と、徐々に活動の場を広げていく。
 平成23年には体育祭応援団も6年目を迎えた。学年が一回りしたことも踏まえ、運営の要領を先輩から後輩へと代々継承できる組織作りについて検討することになる。これが本会設立に至った経緯である。

3、現在の活動状況
 各クラスより選出した応援団員によって、赤組・白組・青組の3つの体育祭応援団を組織する。この運営方法を更に改良するため、平成24年の本会発足に伴い、
図2に示すかたちで組織再編を行った。まず、応援団員は一般生徒をリードする立場であるということから、まとめて「リーダー部」に所属するものとした。また、大舞台で演技をするよりも事務作業などの方が向いているという生徒のため、リーダー部の裏方として「総務部」を新たに設けた。そして、体育祭以降の行事である本郷祭や受験生壮行会を始め、大会応援や行事参加などを希望する生徒たちによって、リーダー部・総務部の指導的立場という意味で「指導部」を組織した。
 指導部ができたことにより、様々な活動を展開できるようになったことはもちろん、中学生・高校生が年間を通じて活動できるようになった。学年を超えた縦の繋がりも強固なものとなり、その年その年に取り組んできた内容が、次の世代にきちんと引き継がれるようになったのだ。これは、とても大きな進展であったと実感している。また、正しい応援精神を学ぶ機会も多くなり、その結果、外見だけではない、心のこもった力強い演技を披露することが可能となった。

図2

図2


三 応援団の謎

 応援団という名称を知っていても、その実態を把握している人は少ない。ここからは、本会でも踏襲している応援団特有の文化について、そのルーツや意義を紹介していきたい。皆様の理解が深まることで、少しでも応援団そのものの魅力を感じ取っていただければ幸いである。

1、応援団の起源について
 明治時代の旧制一高と三高の野球の定期戦(
4)を応援団の出自とする説や、〈一説によれば明治36年、旧第一高等学校が横浜の外人クラブと横浜公園で行った野球試合に、当時の一高生が開通間もない東海道線の汽車で乗り込んで、応援を行ったのがそのはじまりであると言われている(5)〉など、応援団の起源には諸説ある。ただし、〈すでに1890年代後半には、「聲援隊(せいえんたい)」、「應援隊」(向陵誌)の呼称で応援組織が登場して(6)〉いたようで、〈悠々半艇身の雄を以て決勝線に入る。吾校聲援隊狂喜して勝利を祝ふ(7)〉とあるように、明治23年4月13日に隅田川で挙行された一高対高等商業学校(現一橋大学)のボートレースにおける「聲援隊」が、恐らく応援団の起源と考えられる。いずれにしても、明治時代の学生たちの気風によって醸成された文化であるようだ。
 しかしながら、当時の応援の手法は今日のものと大きく異なり、〈野次と大騒音で敵を罵倒し、敵選手のプレーを妨害するという一高流の応援法(8)〉とある通り、およそ模範生からは程遠い様相を呈していた。そこで、現在のような応援方法が形成されていく過程で大きな影響を与えたものとして、1900年代初頭から絶大な人気を誇っていた早慶戦(9)を挙げねばならない。まずは慶應義塾側の記録である。

 明治38(1905)年秋、両校応援席の熱気が沸騰した。10月28日、早稲田運動場においておこなわれた第一試合は、5−0で本塾が完勝。それを受けて11月8日に三田綱町グラウンドで挙行された第二試合は、0−0のまま緊迫した投手戦がつづいていた。突如運動場に異変が起きたのは8回の表、まさに早稲田の攻撃がはじまろうとする瞬間であった。……(中略)……観客席の端からあらかじめ決められた塾生が次々と学生服を脱ぎ、慶應応援団はみごとスタンドに黒地に白く「KO」の人文字を作ったのである。(10)

 これに対して、早稲田側の記録を引用する。

 明治38(1905)年秋、野球ファンの間では、早稲田と慶応義塾との試合に大きな注目が集まっていた。……(中略)……第3回戦の前日、選手が練習している戸塚グラウンドに行き、差し入れを提供して、「明日の第3回戦は一同一ヶ所に陣を取り、あらん限りの声を張り上げて声援する。」と激励した。
 すると、これを見ていた安部部長は、「諸君がその意気ならば、幸い良いものがある。応援は整然とやりたまえ。」と言って、アメリカ遠征の際に現地で目の当たりにした応援方法について寄宿舎生に話した。
 アメリカでは、日本のように観客それぞれが無秩序に拍手をしたり、怒鳴ったり、喝采したり、彌次(やじ)ったりすることはなく、応援者が整然と自校側の見物台を占領して、カレッジカラーの旗を手に手に打ち振りながら、カレッジエールを唱えるという。カレッジエールとは、野球競技に精通したリーダーの音頭に合わせて他の観衆と声を揃えて一斉に唱える喚声で、一種独特の調子がある。また、このリーダーは選手と同様、試合に備えて日々の練習を積んでいなければならないという。
 日本の野球試合における観衆の彌次は、ほとんど学生の体面を汚すまでに狂奔したもので、特に一高が得意としている彌次の飛ばし様は、時として人身攻撃に(わた)ることがあり、いかにも劣等であった。(11)

 応援団の歴史をさかのぼると、この辺りが現在の応援スタイルの最古の記録ではなかろうかと推察する。声の出し方のみならず、「リーダー」という言葉を用いる点、〈リーダーは選手と同様、試合に備えて日々の練習を積んでいなければならない〉とする考え方など、今日の応援団・応援方法のルーツは当時のアメリカにあるようだ。そもそも「フレー」という言葉も、一説によれば英語の「万歳!」の意味を表わす「hurray」に由来しているとされる(12)。その後、早慶戦を始めとする学生野球の過熱とともに様々な手法が考案され、応援のスタイルは日本独自の発展を遂げていく。
 現在の応援団は、戦中から戦後にかけて発足したものがほとんどである。各校の歴史的背景により異なるものの、多くの場合は愛校心に燃え、母校の選手を応援しようという血気盛んな若者たちの集まりが原点であった。野球から始まった応援団は、次から次へと多岐に渡って活動するようになる。入団希望者は後を絶たず、学校にも信頼され、権限を委託された筋の通った男たちが、強烈な風紀委員的役割をも担っていく。当時の若者たちは、そういった雰囲気に憧憬の念を抱いていたのである。

2、応援団的文化について

(a)応援団のユニフォーム「学ラン」
 応援団員は他の生徒の模範的存在であることを目指している。従って、学校指定の制服をそのままユニフォームと捉えることができる。学校の伝統を体現するために、現在では使用されていない学帽などを蘇らせる場合もある。
 ちなみに学生服のことを「学ラン」と呼ぶが、もともとは「学蘭」と書いた。「蘭」とは洋服を意味する江戸時代の隠語であり、「オランダ」→「ランダ」→「ラン」に由来する(
13)。応援団の学ランと言えば、高い襟に長い丈(長ラン)、太いパンツ(ボンタン・ドカン)といった変形学生服をイメージするかもしれない。これらは、高い襟はうつむかないようにするため(14)、長い丈は礼をしても尻を見せないため、もしくは動きを大きく見せることで応援効果を高めるため、太いパンツは演技の激しい動きによって破れるのを防ぐため、といった理由が挙げられるようだ。いずれももっともらしい理屈に聞こえる。しかし私個人としては、応援団員は学校の規則に従った、生徒として相応しい身だしなみであるべきと考える。これについては、機会があればまたどこかで触れたい。

(b)応援団の大きな旗「団旗」
 「団旗」と呼ばれる応援団の旗は、異常なほど大きい。昭和20〜30年代にかけて、各大学応援団が自らの存在感を誇示するために競って大きく誂えたそうで、一説には発注ミスが団旗を巨大化させるきっかけとなった(
15)などその経緯は種々様々であるが、今日における団旗の大きさには、実はこのような意味が込められている。

 応援団というと大きな旗(団旗)のイメージを持つ人も少なくありません。試合場などでは、目視でも自校の存在と位置を示す意味から、一般的な旗よりは大きく作られています。応援団では大学の応援と言う意味から学章を描いた旗が一般的です。大学によっては学長から団旗を授与される形式を採るところもあります。この様に、団旗は学旗の代理旗と言う意味を持つ面もあり、大切に扱う必要があります。(16)

 学校名の入った大団旗がひるがえることで、生徒たちは学校の一員であることを感じられるのだ。本来は校旗を使用すべきなのだろうが、雨風にさらされる屋外などでの使用を頻繁には行えないため、その代理旗という解釈で団旗を作成する場合が多い。なお、大きくする理由は、応援する仲間の存在を遠くからでも確認しやすいという視覚的効果を踏まえている。運動部の試合会場でも見られるように、母校の名前が入った横断幕をよく見える位置に掲げ、選手を鼓舞するのと同じである。
 また、団旗は応援団固有の所有物ではない場合がある。たとえば、〈早大は旗≠応援旗とも団旗とも呼ばないで校旗≠ニ呼んでいる。それは旗≠学校から貸与されたという形式をとっているからである(17)〉・〈東京六大学野球で神宮球場にひるがえる塾旗は、義塾から應援指導部に貸与されているものだ(18)〉という早慶それぞれの「団旗」は、単なる応援団の用具ではない。学校所有の大切な備品なのである。代理旗とはいえ校旗を託されることで、応援団員は大きな責任を伴うが、これは学校からの信頼の証である。そうすることで、学校から認められた公的な組織の一員としての誇りが生まれる。お預かりしているものを大切に扱うことで、礼節を学ぶこともできる。
 昨年、本会は「応援旗」を作成した(図3)。そもそも「団旗」とは「団」の「旗」なので、本会では体育祭各組応援団のための団旗を3色3本管理している。今回作成した旗は委員会の旗であるため、名称は「会旗」の方が相応しいのかもしれない。しかし、応援を目的とする旗、という意味を込めて「応援旗」とした。畳7枚分もの大きなサイズで誂えた理由は、もちろん視認性を高めたためである。デザインには「本郷」と一目で分かる目印、通称「Hマーク」を、学校長の許可を得て使用した。なお、色は〈本郷を象徴するコバルトブルー(19)〉を採用している。

図3

図3 応援旗


(c)応援団の応援技術「リーダー」
 選手を応援するため、応援団は大きな声を張り上げる。しかし、更に力強い効果を生む方法がある。それは観客の声を一つにまとめることである。特に、お互いが相手校を応援する「エール交換」は、敵である相手の健闘を讃え合うことで、お互いに正々堂々戦うという誓いの儀式のようなものだ。それを成立させるためには、優れた応援技術が必要となる。応援団ではこの応援技術のことを「リーダー」と呼ぶ。(
20)
 かつて早稲田大学応援部の礎を築いた野中虎之助監督は、「スタンドに立って学生を指揮することは、一見派手なように見えるかもしれないが、決して派手な仕事ではない。また、派手であってはいけない。スタンドに立った時には、応援学生の代表であるという信念を抱いてかからねばならぬ。応援の技術は観衆に見せるものではない。選手の士気を鼓舞する糧なるものであるから、浮ついた行動をとることはできないのだ。(21)」という言葉を残している。応援団のリーダーとは、人前でただ目立つために行うものではなく、観衆全員の声を合わせるために考案されたものである。
 しかし、時代とともに歌舞伎の要素(22)や音響効果(23)などが取り入れられることで、リーダーには芸術的要素が備わっていく。人々に統一した動きを要求するためのリーダーは、いつしかリーダーそのものを観ている人々に感動してもらうことで応援する、という形式に発展していく。すなわち、「選手のために観客をまとめる応援」ではなく、「観客を感動させるための応援」である。
 甲子園の大会などを見ていると、応援の手法を他校応援団から借用していると思われることが多い。これはプロ野球とて例外ではない(24)。それだけ、応援団の応援方法が魅力的であるという証拠であろう。ただ、他校のものを使用する際に気を付けなければならないことがある。それは独自性である。特にリーダーは、その学校特有の意味付けを盛り込んでいる場合が多い。たとえば本会の校歌のリーダーは、同じ動きが1番で5回登場する。これは本郷の「本」の文字を表現している。こういった理由から、もし他校のものをそのまま真似してしまうと、本質的な意味を理解せず、誤った動きになってしまう恐れがある。
 リーダーとは、人々を惹きつける芸術性に加え、その学校のオリジナリティーを表現したものなのである。

おわりに

 昨今の応援団のほとんどは吹奏楽部とチアリーダー部を擁しており、三部合同で活動することが一般的だ。しかしながら本稿では、日本独特の文化である(
25)、学ラン姿で大音声(だいおんじょう)を上げるタイプの応援に焦点を絞って考察を試みてきた。
 教育実践という視座で応援団を捉えなおすとき、本会の指導者全員が教育目標として掲げている生徒像は、「将来を見据え、自主的に目標を設定し、責任を持って実践できる、紳士的な生徒」である。特に生徒たちには、自らの価値を見出し、自信を持って巣立っていってほしいと考える。自信こそが、彼らの今後の人生において何よりも必要不可欠な要素だと思うからだ。オーストリアの精神科医で心理学者のアルフレッド・アドラーによれば、〈自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること。そこではじめて、われわれは自らの価値を実感することができる(26)〉のだそうだ。本当の自信を獲得するためには、他者から認められることでも、褒め称えられることでもない。実は、感謝の言葉をもらうことが最も重要なのである。そういった意味において、応援団とは極めて有用な環境であると私は確信してやまない。だからこそ、応援団に関係する全ての方々へ、常に心に留めておいてほしいことを最後に述べたい。

 毎週のように応援団の活動に顔を出すようになり、団員たちが目に見えるようなスピードで成長を重ねるのをびっくりしながら見てきました。
 入部した生徒たちは、応援団の厳しい礼儀作法や上下関係に最初は驚きを隠せませんが、見事にそれらを自分のものにし、固い「絆」で結ばれた仲間たちという最高の財産を得て卒業していきます。
 「応援団なんて、バンカラで古クサイ」
 と言われてしまう近年ですが、今の社会だからこそ大切にしなければならないものがあるような気がしました。(27)

 これは2012年5月にフジテレビ系列で放送されたドキュメンタリー番組「ザ・ノンフィクション〜青春エール!花の中学生応援団3000日」の番組スタッフ、村井明日香氏の言葉である。応援団は厳しいし、古臭い。これが一般の方の持つイメージであろう。そのようなイメージを払拭すべきだとは思わない。むしろ応援団である以上、バンカラと言われようと古臭いと言われようと、ある程度の応援団らしさ(・・・)は必要である。そのためには、〈大切にしなければならないもの〉とは何か、という問いかけを忘れず、行住坐臥ともに真剣に向き合い、本質を見据えた正しい取捨選択──正に「不易流行」を、応援団に携わっている者は(それなりの立場にある者はなおさら)実践していく必要がある。
 かつて応援団を標榜する団体が、傍若無人に振る舞うことを応援団らしい態度と勘違いし、世間の評価を低下させたことがあった。今日の低迷も、過去のこの行いが影を落としている。電通でスポーツビジネスを展開し、順天堂大学の教授も務めた間宮聰夫氏は、今日の応援団についてこのように言及している。

 母校愛と礼節に基づく創造性(Creativity)と感性(Feeling)による表現の差異化は当然です。しかし従来のリーダー部中心ではなく、チアリーダー部、吹奏楽部の三位一体で、学生のスポーツのみならず文化活動をサポートすることによる一般学生の信頼回復は焦眉の急です。
 一般学生の生活意識から乖離しては応援団は存在しません。人生八十年時代を迎え、七〇万時間を自らデザインしなければなりません。肩肘をはり形式美を追求するあまり、一般学生から敬遠されてはいませんか。(28)

 応援団のしきたりには、厳格なこだわりを見せる割に、実は根拠の曖昧な場合もある。小笠原流礼法宗家曰く、〈かたちにばかり(こだわ)る礼法など存在しない。……(中略)……「なぜその作法が存在するのか」という理由をしっかりと理解し、自分なりに咀嚼(そしゃく)することが大切なのだ(29)〉。これからの時代の応援団が取り組まなければならないことは、一つ一つの作法を検証して、応援の理論を構築することではないだろうか。建学の精神や教育理念と照らし合わせて、母校の発展に寄与し得るかどうかを心掛けながら、新しい応援方法を模索し、実践していくことが大切である。その上で、他校とのネットワークを構築し、互いに尊重し合う。そうすれば、応援団の必要性がきっと世の中に広く認められる。応援団員は、正しい判断のもと世のため人のために力を尽くす、社会に必要とされる人材へと成長できるはずである。

 末筆ながら、本稿の執筆もとい、本会の活動を行っていくことができるのも、先生方をはじめ、事務の皆様、用務の皆様、保護者の皆様、その他たくさんの関係諸氏のご理解とご協力があってのことと痛感しております。この場をお借りして、心より御礼申し上げます。



(1)竹内健編『全日本学生応援団連盟結成五十周年記念誌』(全日本学生応援団連盟・平成13年)3頁
(2)慶應義塾大学応援指導部史制作委員会編『慶應義塾大学応援指導部 創部75年記念部史』(慶應義塾大学応援部三田会・平成20年)16頁
(3)國學院大學編『國學院大學百年小史』(昭和57年)171〜172頁
(4)1800年代末期に、現在の東京大学教養学部などの前身にあたる旧制第一高等学校と、京都大学総合人間学部などの前身にあたる旧制第三高等学校の対抗戦が行われ、1906年からは定期戦も行われるようになった。当時は学校の名誉をかけて戦い、新聞社も大々的に報じていたと伝えられる。
(5)東京六大学応援団連盟OB会編『応援団・六旗の下に』(ユーゴー・昭和59年)102頁
(6)加賀秀雄・鈴本敏夫「旧制高等学校における応援団の組織化の実相とその歴史的役割について」(『日本体育学会第36回大会号』・1985年)85頁。なお、ルビは筆者が付した。
(7)『向陵誌』第二巻(第一高等學校寄宿寮・昭和12年)1142頁
(8)嚶鳴会・一高応援団史編集委員会編『向陵誌 一高応援団史』(一高同窓会・昭和59年)39頁
(9)早稲田大学と慶應義塾大学との対校戦を指す。慶應義塾側が「慶早戦」と呼ぶ場合もある。明治36年に行われた硬式野球の試合を起源とし、プロ野球発足以前より日本野球の発展に貢献した。現在でも東京六大学野球リーグ戦の最終週に、両校の順位に関わらず単独開催を行っている。
(10)前掲『慶應義塾大学応援指導部 創部75年記念部史』10頁による。『時事新報』(明治38年11月9日)によれば、〈唯見れば兼て用意やありけん、階段に陣取りたる慶軍の応援者、一端より徐々に服を脱し行けり。見れば始めよりKOの二字を現すべく陣取り居たる者にて、黒き服の間に正しく白き襯衣(シャツ)にて二字を現出したるは妙案と云ふべく、拍手起る間に立現れしは早軍の泉谷なり〉とある。
(11)早稲田大学応援部創部70周年記念事業実行委員会編『創部70周年記念 早稲田大学応援部史』(早稲田大学応援部稲門会・平成22年5月23日)27頁
(12)『朝日新聞』(平成24年10月29日付朝刊)に〈「英語語源辞典」(研究社)の編者でもある寺沢芳雄・東大名誉教授は、「huzza(フザー)」という言葉から派生したという見方を教えてくれた。16世紀ごろまで船員たちが「帆を巻き上げろ!」「力を振り絞れ!」などという言葉で、気合の言葉として使っていた。それが「hurrah(フラー)」→「hurray(フレー)」と変形した〉とある。
(13)ろっきプロ『六大学花の応援団 ガクランに敬礼』(ノラブックス・1984年)143頁に〈ラン〔蘭〕着物。衣類。〔←オランダの上略語ランダの下略語。最初ランダは洋反物・洋服に使われていたが、ランと略されてからは、元の意味が忘れられて和服の場合にも使われるようになった〕〉とある。
(14)重松清『あすなろ三三七拍子(上)』(講談社・2014年)46頁に〈顔を下げると、襟が喉や顎に食い込んで痛いだろう。学ランの襟は、これを着ているうちはどんなことがあってもうつむかないぞ、胸を張って前を向くぞという誓いの証なんだ〉とある。
(15)慶應義塾大学応援指導部所有の「幻の大塾旗」は昭和21年に作成されたが、単位を間違えて発注した結果、結果的に旗手1名ではとても使用することができないものとなった、という説。
(16)『高崎経済大学 学生応援団教範』(高崎経済大学直属応援団・平成23年)44頁
(17)前掲『応援団・六旗の下に』4頁
(18)渡部淳編『塾』第255号(慶應義塾・2007年)29頁
(19)本郷学園60年史編纂委員会編『本郷学園60年史』(本郷高等学校・昭和57年)62頁による。また、本郷学園校史編纂委員会編『本郷のあゆみ 1921−2006』(本郷中学高等学校・平成18年)58頁によれば、〈戦前、松平ョ壽校長が軽井沢で病に倒れた際、昭和天皇からお見舞いとして下賜された白絹を紫色に染め、校旗の布地としました。しかし、布地の幅が狭く数枚繋がなくてはならなかったため、服部季彦図工科教諭の提案によって、新たにコバルトブルーの同系色の布地を使って継ぎ目を隠すこととなりました〉とある。
(20)学校によっては「テク」とも呼ぶ。「リーダー」とは中央に立って指揮を執る者を指すことが多く、それ以外を「ウケ」「バック」「屏風」「兵隊」などと呼ぶ。たとえば、『第三十八回「日輪の下に」パンフレット』(不動岡高校応援部・平成25年)14頁に〈曲やテクも現在の形に統合され、本校・応援部の伝統をさらに盛り上げている〉とあり、『東海大学応援団 創団五十周年記念誌「栄光」』(東海大学応援団・2014年)7頁には〈リーダー、バックと一体となり、勝利を勝ち取る〉とある。
(21)「第60回早稲田大学稲穂祭」(平成25年10月30日)の「応援部プレイバック〜応援テクニックの精神〜」講演内容より。
(22)前掲『早稲田大学応援部史』51頁によれば、〈(野中は)色々な所へ出掛けて広く観察の眼を開き、歌舞伎の『勧進帳』にある「弁慶が六方を踏む仕草」が応援の拍手の呼吸に合うとして……(中略)……研究を続けた結果、昭和14年の秋、ついに「勝利の拍手」を完成させたのである。この拍手は弁慶の六方を取り入れただけでなく、小柄な身体を大きく見せることができるようにするなど野中自身の独創的な要素も加えられていた〉とある。「六方」とは、主に舞台から花道を通って引っ込む時に、特別に大きく腕を振って足を力強く踏みしめながら同じ方向の手足を同時に動かして歩く演技である。なかでも弁慶に代表される「飛び六方」は、片手を大きく振って勢いよく足を踏み鳴らしながら花道を引っ込む六方であり、無事落ち延びた義経一行を追うために力一杯走っている様子を表現している。
(23)声と動作から始まったリーダーには、ブラスバンドの導入により校歌斉唱や応援歌などの伴奏が加わっていく。そして昭和40年秋に登場した「コンバットマーチ」によって、〈学生の声を爆発的に引き出すことができると同時に、その声と音楽を巧みに融合させることで応援効果を高めることができる〉(前掲『早稲田大学応援部史』79頁)「応援曲」という概念が生まれ、今日では当たり前である音楽主体の応援手法が次々に考案されていく。
(24)2012年に広島東洋カープの私設応援団が、明治大学応援団の応援曲「ハイパーユニオン」を導入した。
(25)Gudrun GRAEWE「応援団について―キャンパス・ライフに不可欠の団体か奇妙な遺物か―」(『立命館言語文化研究』14巻2号・2002年)187頁に〈応援団(応援部,応援指導部ともいう)は通常,リーダー部(指導部ともいう)と,音楽演奏を行う吹奏楽部,そしてチアリーダー部から成り立っているが,ここでは取り分け日本にしか存在しない集団としてのリーダー部を考察の対象としたい〉とある。
(26)岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教え』(ダイヤモンド社・2013年)206頁
(27)村井明日香『ザ・ノンフィクション 花の中学生応援団 泣いて笑った成長物語』(朝日新聞出版・2013年)219頁
(28)「全日本学生応援団連盟結成五十周年記念 応援団セミナー」(平成12年10月22日)の記念講演内容より。この事業の趣旨は「学生応援団を、社会的・常識的に検証する」とある。なお引用は、学習院大学応援団創立五十周年記念誌編集委員会編『応援団の五十年 学習院大学応援団創立五十周年記念誌』(学習院桜援会・平成14年)90頁によった。
(29)小笠原流礼法とは、室町時代に確立した武家の礼法である。今日においても「相手を大切に思うこころ」を基底とした、伝統的でありながら現代社会に活用できる礼儀作法の普及活動を行っている。引用は、小笠原敬承斎『誰も教えてくれない 男の礼儀作法』(光文社・2010年)18頁によった。

(『塔影』第47集・2014年3月31日 一部加筆)     


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